東京撃剣倶楽部
多数の流派を統合して、明治大正期に作られた流派です。天然理心流もその中に含まれています。
It is a school that was created during the Meiji and Taisho periods by integrating many schools, including Tennen Rishin-ryu.
開祖は野口一威斎という人で、明治大正の頃に創流されています。
一刀流、無念流、新影流、中條流、彌生流、吉岡流、卜傳流、栁生流、鐘捲流、無刀流、北辰一刀流、澁川流、新心流、天然理心流、神道一心流、外十數流の各長所を取捨綜合し、加ふるに一威斎先生の独創になる秘訣を以てしたるものと云っています。この野口一威斎は同時に神道六合流という柔術も多数流派を編纂して創流しており、これもかなりのボリュームです。
綜合された流派の数があまりに多いので、本当に全てちゃんと習ったものなのかは疑問が残るところではあります。ですが、時代的にまだ生の武術がたくさん残っていた時代でもあるので、研究をされている人であっても、本物に出会う機会は現在と段違いであったと思います。
そう考えると、平成、昭和に現代武道のような形を創作するよりは、比べ物にならないくらいのクオリティがあったであろうことは想像できます。
どちらも書籍による独習をきっかけに修業を始められるようになっていて、言ってみれば通信教育制をとっていたといってよいと思うのですが、野口一威斎という人はなかなか先進的というか、柔軟な考えの持ち主だったのかもしれません。
私達が参考にしている神道扶桑流の資料は、まさにこのための教則本のようなものによっています。
因みに、この流派では撃剣ではなく剣道といっています。資料の表紙には「神道扶桑流剣術教授書」と題名が書かれていますが、本篇で以下のように言っています。
『往昔に於いては剣道のことを単に太刀打と呼んだが、足利氏の末裔――戦国時代に至って、太刀打ちなる語は兵法と改称せられ、慶長年間再び改められて剣術となり、最近更に改められて剣道と呼称さるるに至った。而して尚右の他、古来の文章、書籍等には兵術、剣法、刀法、刀術、刺撃、撃剣など云ふ諸語が用いられて居る。併し乍ら由来剣道の本旨が、単に刀剣を巧みに使用する技術方法を究めるのみでなくして、所謂武士道を実践するに必要なる精神を其の主要な目的として居るのであるから、従来の様に単に剣術とか、撃剣とか云ふ如き片倚的な名称を用いずして、総括的にこれを剣道と称するのが、最も當を得た名称であらうと思ふ。』
武道に対する開祖の真面目さがとても伝わってきます。私はこのような仰々しさが苦手なので、あまり賛同できないのですが、ここでは剣術、撃剣、剣道は同じカテゴリーの中で話されています。
開祖は剣道という言葉から武士道の崇高さを感じとっていたようです。
ですが、やっている内容は打突組打をやっているので、現代の剣道よりは私達の言うところの撃剣に近いことをやっていたのだろうと思われます。
神道扶桑流は教授段階として以下のものを提唱しています。
「技」
打、突、殺、活の法則で基本動作のことです。その際の體の動かし方が含まれており、神道扶桑流剣道の基礎となるべきものです。しかし、これはこのまま実際に使うというものではありません。
「術」
「技」を実際に使う際に「術」となり、「術」は「技」の活用法という位置付けになります。打、突、殺、活の理法を充分に知了した後、これを実際に行う際の法だと云っています。
「技」をそのまま使用しても、相手は動き、受け、避けるので帰って負けることになります。「技」は状況に応じて「技」を出す必要があり、「技」を変化して敏活に行うことを「術」と云っています。
機先を制するということは、敵の虚に乗じ、又は敵に虚を生ぜしめて、其の虚に乗ずる事になります。つまり、「技」を使うためにこれを敏活に行うことが必要ということなのです。
「略」
ここまでの「技」に「術」が備わって初めて「略」に入ることができる段階になります。
「略」は「術」を無限大に働かす方法であって、所謂、機に臨み、変に乗ずる千変万化限りなき動作のことを指しています。
要するに「術」を離れたる無形のものを云っています。「術」だけでは寄正縦横、神変不可思議の動作は出来ぬが、「略」を悟了せば限りなき霊妙の動作を表す事ができる。
『機に臨み、業ありて、業せぬ業を眞業と云う』とはこの「略」を言ったものという訳だそうです。
即ち、初心者は先ず「技」を一心に研究して充分これを会得し、其の基礎根底が固まるに及んで「術」に進み、「術」の研究が終わった後、専ら意を「略」の修業に傾注したならば、能く正しき技を会得することが出来、「略」を悟る事が出来るというわけです。
「技術略」の三者は何れも別個のものであるが、而も離る可らざる一體であって、其の何れが欠けても技の堂に達する事はできないのであるから、能く能くこの理を会得して順路を誤らぬ様、且つ成功を急ぐが如き事のない様専心修業せねばならないと苦言を呈しています。
基礎は形稽古を行う一方で、現剣道のように切り返し、打ち込みを行うことから始まります。
切り返しは正面を打ってから、體を左右に捌きながら左右面を繰り返すような形態で、今の一般的にみる切り返しとは少し違います。
打ち込みについては次のような記述があります。
「打ち込みは一足一刀で踏み出て、打ち、都度一足下がる。」
この表現を見るに現剣道とは少し違う姿でやっていたのではないかと想像します。
現剣道でも基礎打ち練習をする際は一足出て一つ打って一足下がるをやりますが、神道扶桑流のここでいう打ち込みは竹刀を上下素振りのようにする打ちではなく、手先でちょこ打ちをしない、現剣道でも見かける良質の差し面のような打ち込みです。その上で一足出、打ち、一足下がるので、打ち終わりに継足で前方に通り過ぎるような打ちをしていないように思います。
「体当たりは右肩を突き出し、目標を相手の腹に置き、敵の體を下から上に差し上げる心持で當たる。」
体当たりについても、現剣道、また古武道を名乗る流派で撃剣として練習されているものを見ても腹で突きあてるものを体当たりとしているのをよく見かけます。
私達の撃剣では腹で当たりに行く前に竹刀があるため、起こりえない形と考えているので、神道扶桑流のこの資料で示す体当たりの方が腑に落ちます。
打ち込み、体当たりのこの辺りは、東京撃剣倶楽部としても参考にさせていただいている考え方です。
「鍔競合いは真剣勝負に於いては刀尖が合えば既に勝敗が決すると云われている位であるから斯様な事がありよう筈がなく、殊に互いが相手の首に竹刀を押し当て、以て押し合い倒し合いなどするような事は絶対あるべき筈がない。元来鍔競合いは鍔元で押し合うのではなくして、刀腹を以て敵の刀を押圧し、敵の働きの自由を拘束するのである。而して敵が我に押圧を加え来た時には、我は刀腹を以てこれに応じ、機を見て體を交わし敵の體が崩れたる瞬間直ちにつけ入って技を施さねばならぬ。」
鍔競合いについては、少し否定的なようです。
私達の考えでは、鍔競合いになることが多いものと思っています。殴り合いの喧嘩で多くがもみ合いになると聞きますが、これと同じことになるのではないかと考えています。
ですが、鍔競合いそのものとしては上記でいう刀腹で行われるというものがそれに近い状態で、この状態で斬り合い、組合が起こりえるのです。
天然理心流なども柔術が深く剣術形に組み込まれているので、間合いの近い剣術だと思うのですが、このような状況を想定したものと想像しています。
神道扶桑流としては組打は両者が竹刀を離した処から起り来るものであると考えていたようです。
「真剣勝負であれば、組み敷き、右手差しを抜いて首を掻く、試合に於いては、腕を逆に捕るか、面を捻って動くを得ざらしむるか、面を捻り取る事を以て勝とする。しかし、これは危険で尚且つ、元来剣道は剣を取って勝敗を争うものであるから、組打で以て勝敗を争うことはなるべく避けねばならぬ。併し乍ら、ある場合には組打を必要とすることがあるのであるから、平生組打の練習をしておくことは元より必要である。剣柔二道は両々相俟って用を為すものなのであるから、剣を学びたるものは亦大いに柔術を心得て置くことが肝要である。」
このように、組打そのものを排除はせず、組打の稽古の必要性を謳っています。
理想としては剣道であるから、剣で事を決めるべきだが、状況は様々であるのでその準備はするべきという立ち位置でしょうか。
神道扶桑流でも体当たり、足搦み、腰投げなどが鍔競合いの中で行われることが想定されています。
私達も剣を大事にしますが、4~5割くらいで鍔競合い、組打になることがあり、戦術的にくっついて操作を促すことを目指します。ですが、竹刀を離して、極める捻じるにあまり持って行かず、抑え込みをして斬るという仕草をすることが多いです。
私達の撃剣では可能な限り刀を離しません。